剣道とキリスト教

剣道とキリスト教

7ヶ月ぶりの師範との練習

昨日(9/25)の剣道の練習では、2月以降、7ヶ月ぶりに師範は防具をつけ小・中学生や一般に稽古をつけられました。
私も、練習の機会が与えられて、感謝でした。

剣道_師範と_2020-0925
 
・常に、相手との間合いを取ること
 (相手の動きに応じて、前に、また、後ろに)

・左拳(こぶし)を下に、剣先を効かせること
・相手の右小手を攻めること
・打突した瞬間の 気剣体の一致
・攻めて、相手が出てくるところを打つ
 

いくつかの注意と心得を教えていただきました。

3人の先生方とも練習のひと時が与えられ、幸いな金曜日の練習でした。
 
剣道_2020-0925



川西市剣道協会 本部道場 にて
(川西市総合体育館 二階 武道室)

範を垂れる

『範を垂れる』

教えることは、ある程度の知識と技術、経験があればできる。
しかし、範を垂れる(模範を示す)ことは、本当に難しい。

自らも、ある「境地」に達しているか否かが問われます。・・・。

剣道_2020-0901

ーーー
 

キリスト者としての自らは、どうなのだろう?、とあらためて問いかけられたようにも感じました。
我らが主、イエス・キリストも、使徒パウロも、ペテロも、「模範を示しました」と語っていますね。
 

<イエス・キリスト>
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。 (John 13:15
 

<パウロ>
私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。 (2Th. 3:9
 

<ペテロのキリストへの言及>
このためにこそ、あなたがたは召されました。
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残された。
 (1Pet. 2:21
 

ーーー 
 

*写真: 昨日(9/1)の 練習
 (川西市剣道協会 本部道場にて)

剣先を抑えて(殺して)から

昨日(8/28)の剣道の練習。
 

私は、本部道場の代表のT先生との久しぶりの稽古でした。
 

今まで出会った同世代の先生の中で、最も鋭い剣の使い手です。

剣道_2020-0828

練習後に、先生のところに行って、挨拶した時、「剣先(けんせん)」が効いているのに、闇雲に打ち込んできてはならない」との教えを受けました。
 

剣先を気にせずに思い切って打ち込んでいけば、喉や胸への「突き」を入れられるし、避けようとすれば、「逃げ」になるし、なかなか難しい。

「剣先を抑えて(殺して)から打ち込むように」とのことでした。

正面から「闇雲に」打ち込むか、初めから少し外して「中心を攻めずに」打ち込み、なかなか一本にならないか、私の場合、ちょっと極端。

性格、人生、姿、それから・・・、牧師としての伝道や牧会にも現れていたようで・・・。
 

一時間ほど順番を待って、先生との7分ぐらいの練習の1回のみでしたが、「見取り稽古」としても、「地稽古」としても、貴重な練習でした。

 

・写真は、右端が私。
 姿がごっつい?
 「ピヨぐま剣士」だから?


● YouTube は、ちょうど3年目の10月、T先生との練習。
 最後は、だいぶへばっていました。



 

初めての「CPAP剣道マスク」

初めての「CPAP剣道マスク」

昨日(8/7)の剣道の練習。

剣道_2020-0807

初めて「CPAP剣道マスク」を使ってみました。

呼吸がだいぶ楽でした。
左側のハンカチ(少し大きめ)は三角にして、「不織布マスク」の代わりに使うこともあります。
 
CPAP剣道マスク_1 CPAP剣道マスク_2
 
・<最初の写真>
 師範(白いズボンの方)の隣が私です。

 

参考:究極の「剣道用マスク」の使用方法


(注):CPAP(シーパップ:持続陽圧呼吸療法--- 睡眠時無呼吸症候群の治療に使う装置



・川西市剣道協会 本部道場
 (川西市総合体育館 2階 武道室)



究極の「剣道用マスク」の使用方法

究極の「剣道用マスク」の使用方法

全剣連(全日本剣道連盟)でもマスク着用の奨励(必須!)や、マスク着用しての飛沫状況などの実験、研究、また、各有名武道具店での専用マスクなどの開発を進めていますが、これといって、良い方法がなかなか見つかっていないようです。

感染拡大予防ガイドラインのマスクについて(新たな調査結果を受けて) 2020-6/24
  https://www.kendo.or.jp/information/20200624/
 
剣道のCPUPマスク_4a


私も、不織布マスクの着用では、口の中に不織布が入ってくることや、呼吸時の空気と取り入れる面積(少し開けた口の大きさ)の問題があって、本当に呼吸が苦しい状況でした。

日本手拭いをマスクがわりに使ったり、大きめのハンカチを三角に折ってマスクにしたり、・・・、色々試してみました。
 
キッチンで使う、ステンレス製の水切りの小さなカゴを使おうかと思ったりしましたが、それをマスクに縫い付けるのも面倒ですし、金具が口に当たるのも、痛いなあ〜〜。と思っていました。
 

本日、「アイデア」が閃きました!!

私、もう10年くらい「睡眠時無呼吸症候群」で、CPAP を使っています。
そうだ、あれが使えるかも?!
ということで、色々試してみました。

CPAP剣道マスク

剣道のCPUPマスク_3a

ーーー

<結論>として、三角形のプラスチックの、口と鼻に当たる部分(青いプラスチックの枠とシリコンゴム)のみを外して口と鼻に当て、その上に「不織布マスク」をつける。
剣道のCPUPマスク_2a


これは、非常に簡単で、また、そのまま面をつけることもできました。

大ヒット!!でした。

剣道のCPUPマスク_1a


以前使っていたもの(口に当てる部分)があるので、これを利用します。
 

「睡眠時無呼吸症候群」の CPAP利用中の 剣道愛好家の皆様、これは、まさに、オススメ!です。

口と鼻の部分は、シリコンゴムなので、これも、とても楽。
空気を取り入れる面積も、この三角の部分すべてなので、呼吸がとても楽です!!

 

・なお、最近では、「マスクガードフレーム」も色々出ているようです。
 剣道の「面」は、額と顎で固定するので、鼻と口までの「マスクガードフレーム」、一度探してみます。









キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―


キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―

 駒場エデン教会牧師  笹森 建美

 私は教会の牧師であると同時に、日本古来から伝わる小野派一刀流という剣術や、林崎流という抜刀術、直元流という大長刀術の宗家を継いでいます。そのため、「教会の牧師と剣道や武道とは矛盾しませんか」とよく聞かれます。「キリスト教と武道とは矛盾しないのか」という質問は、依然として日本の中に、キリスト教と武道は正反対の立場にあるのではないかという考えが存在するからでしょう。

 内村鑑三がある人から武士道とキリスト教はなじまないのではという指摘を受けた時、彼は自分が武士であると誇りを持っていたので、憮然として「いや、そんなことはない。武士道とキリスト教は一致するのだ」と述べています。彼は特に強調して次のようなことを言っています。
「イエスとその弟子を武士の模範として見ることができる。例えば、キリスト教と武士道の共通点は、両者とも真実、あるいは正義、嘘をつかない、人をだまさないということをとても大事にしていることである。武士道は勇気であって義のために死を恐れない。一方パウロも、人から自分が恥を受けるようなことをしたくない、自分の誇りを失われるならば死んだほうがましだ、と言っているように、パウロこそ私たちの模範とすべき武士なのだ。」さらに、パウロの「私たちは生きるのも死ぬのも主のために生き、すべては主にあって益である。死ぬのも益である。生きるのも益である」という言葉を引用して、「生きるのも死ぬのも私の身によって何かが現されること。キリスト教の場合はイエスの栄光、神の栄光が現れること。武士道においては正義とか公正というものが現れること。そのためには命を懸けてもいいのだ。それが両者に共通する点なのだ」と述べています。
 剣の道である武士道も、キリスト教信仰も、人の死に方あるいは生き方を真剣に問いかけているのです。

『葉隠』という本の中に面白い逸話があります。昔の武将の新田義貞が勝ち目のない戦に望んで行き、敵に囲まれて死ななければならなくなったときに、自分で首をかき切り、地面に穴を掘って自分の首をそこに入れて、その上に横になって自分の首を守り通した、というのです。著者の山本常朝はこのように言っています。「真の剛の者というのは何も言わずにそっと抜け出して死に赴くものである。相手をしとめる必要はない。黙って切り殺される者が剛の者なのだ。このような者は相手をしとめることができるものである。」つまり、本当に強い人は何も言わずそっと出て行き首を差し出して死ねる。そして、自分の首を差し出すことができる人、その人が実は相手に勝っているのだ。これが武士道の精神です。決してただの狂気ではありません。

 キリスト教の信仰を思い起こしてみますと、キリスト教が世界に広まっていく過程で多くの迫害を受けました。最初に迫害を受けたステファノは、石を投げられて殺される時に、「私を殺そうとしている人たちは、何をしているのか分からないのです。彼らの魂をお赦しください」と天を仰いで祈っています。本当に馬鹿げた狂気にしか見えない行動です。その時にステファノを殺すことに賛成していた人がパウロでした。ステファノを殺すことに、すなわちクリスチャンを殺すことに自分の情熱を燃やしていたパウロが、その後回心しキリスト教を伝える側に変わってしまいました。ステファノの死は決して犬死にではなかったのです。彼の死こそが、パウロの魂の中にある何かに語りかけていたのです。初代のクリスチャンたちは、見方によっては、唯々諾々として殺されていきました。しかし逆に、それによって福音が全世界に及んでいったのです。

 実は、この精神はイエス御自身にありました。イエスが十字架にかかった時にユダヤの人々はイエスを罵りました。「お前がもし本当に神の子ならば、今その十字架から降りてこい」、「何故今すぐ味方の軍勢を呼びここで革命を起こさないのだ。そうしたら我々はお前を信じよう。」その時に十字架のイエスは、神に対して「この人たちは何をしているのか分からないのです。彼らの魂を救ってください」と祈り、そして「ことは成就した」と言って十字架で死んでいかれました。もしイエスが十字架から降りて味方の軍勢を呼び革命を起こしていたら、一時的にはユダヤの国はイエスを王とする独立国になっていたかも知れません。歴史の中の一事件として、ナザレから出てきたイエスという男が独立を勝ち取ったという記事が歴史の一行に書かれたかも知れません。しかし、それはそれでおそらくおしまいであったでしょう。イエスが十字架について死なれたからこそ、今、全世界にイエスの教えが広がっているのです。

 このようにキリスト教と武士道は非常に近いところにあるということを理解していただけるかと思います。ただ残念なことに、武士道そのものには「神からの救い」や「神の愛」という教えは見えてきません。内村鑑三はこのように述べています。「武士道がキリスト教に触れるならば、キリスト教の洗礼を受けるならば、世界で最も優れた教えになるであろう」と。その通りだと思います。武士道にはまだ限界があります。しかし、イエス・キリストの洗礼を受けるならば、武士道は世界に誇ることのできる一つの人間の生き方を示すものとなるでしょう。死が死で終わらない世界、死が命を満たす世界、それが私たちの本当に求めているところではないでしょうか。

 私たちは、毎日何だか分からずに生かされているような生き方をしていますが、「本当にこれでいいのだろうか」と考えるはずです。その時に、自分の信じることに命を懸けることができるかどうか是非問いかけてみてください。その時きっと、聖書が教えていることが甘いロマンティックなものではなく、あなたは生きることによって死んでいるのか、死ぬことによって本当に生きようとしているのか、というチャレンジをしていることに気がついていただけるのではないかと思います。

(大学チャペル・ウィークでの説教より)

 『青山学報』 200110

「宗教感話」は、『青山学報』に連載されている、学内外でキリスト者としてよいお働きをされている方々に執筆していただいている、エッセイ的な読み物です。 執筆者の肩書きは当時のものです。
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*本文の掲載は、著者より承認を受けています。 2012927日)
*当初(リンク)は、青山学院宗教センターより承認を受けました。
 (
200669日)
井草晋一:ピヨ バイブル ミニストリーズ

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剣道とキリスト教_第17回 大阪学生剣道連盟 OB・学生合同研修会_1 (1)
 <写真> 『剣道とキリスト教』
第17回 大阪学生剣道連盟 OB・学生合同研修会
2016年12月6日 ・関西大学 にて)