十字架
『人がその友のために』 〜共通の奥義〜
『人がその友のために』
<剣道とキリスト教_01>
「剣道とキリスト教って、どんな関係があるの?」と身近な方々や同僚の牧師からも問われたことがあります。
この問いに対する答え、キーワードは、「友のために」と「捨て身」です。
私は、中学2年の時から五十数年間剣道を練習しています。その中での一大転機は大学一年の終わり、1973年3月11日に教会の礼拝に初めて出席し、そこで信仰を持ったことです。 当時、「剣道を通して、人生の柱を見出す」と友人たちにも語っていた私でした。
初めて出席した石橋キリスト教会の礼拝で、有田優(ありた まさる)牧師の語るメッセージ、「神はあなたがどのような罪人であるか、すべてご存知の上で、あなたに『友よ』と呼びかけてくださり、『私のもとに来なさい。』と招いておられます。」に深く心を探られ、イエス・キリストを私の罪からの救い主、人生の主として信じました。
この時から、十字架上ですべての人のために自らのいのちを捧げられた、キリストの「捨て身の愛」、すなわち
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(新約聖書・ヨハネの福音書 15章13節)
との、キリストのことばが、私の信仰の土台となったのです。
そして・・・、今一つの鍵の言葉もお話ししたいと思います。
大学入学と同時に入部した剣道部では、日々の激しい練習がありました。
私たちの卒業の翌年、昭和52年に九段を授与された佐々木季邦(ささき すえくに)範士から、合宿などの折にいくつかの剣道の奥義について教えを受けました。
その中に次の歌があります。
「山川の瀬々に流るる栃殼も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」
私は、ここに剣道の奥義「捨て身」の精神、「身を捨ててこそ生きる」が、キリストの十字架の死と復活を指し示しており、まさに合一、同じ生き方であると心に受け止めたのでした。
これが、私の「剣道とキリスト教」の原点なのです。
ーーーーー
<写真>
左:神学生の2年目、奉仕先の「港キリスト教会」の礼拝メッセージのためにおいでくださった、有田優先生ご夫妻と私。
右:大阪府立大学剣道部の「佐々木季邦先生ご夫妻を偲ぶ会」(2015年10月17日)で展示された、佐々木先生の肖像写真と「剣道日本」(1985年1月)の表紙。
ーーーーー