捨て身
Twitter 「剣道とキリスト教」No.1〜3
Twitter 「剣道とキリスト教」No.1〜3
<写真> 『剣道とキリスト教』
第17回 大阪学生剣道連盟 OB・学生合同研修会
(2016年12月6日 ・関西大学 にて)
<写真> 『剣道とキリスト教』
第17回 大阪学生剣道連盟 OB・学生合同研修会
(2016年12月6日 ・関西大学 にて)
「剣道とキリスト教」1
私の剣道とキリスト教の原点。
佐々木季邦師範の言葉「山川の瀬々に流るる栃殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」と有田優牧師の「キリストはあなたを友として招いておられます」、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はない」のキリストの言葉です。 pic.twitter.com/aTzTXb5jIR
「剣道とキリスト教」2
— PeterPooh1 (@PiyoGuma) June 29, 2020
「礼の原点は、誠意・尊重・敬愛等の心情の発露である。」(剣道みちしるべ:佐々木季邦著)は、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢ぜず、高慢になりません。礼儀に反することをせず・・、愛は決して耐えることがありません。」の教えそのものです。 pic.twitter.com/HtS4BhsrT8
「剣道とキリスト教」3
— PeterPooh1 (@PiyoGuma) June 29, 2020
「平常心」「不動の心」が大切。しかし、「四戒:驚・懼(く)・疑・惑」すなわち、驚き、恐れ、疑心暗鬼、惑いが起こる今。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また わたしを信じなさい。」とキリスト。永遠から今を見る。ここに平常心あり。 pic.twitter.com/D2oqzCT3cM
『人がその友のために』 〜共通の奥義〜
『人がその友のために』
<剣道とキリスト教_01>
「剣道とキリスト教って、どんな関係があるの?」と身近な方々や同僚の牧師からも問われたことがあります。
この問いに対する答え、キーワードは、「友のために」と「捨て身」です。
私は、中学2年の時から五十数年間剣道を練習しています。その中での一大転機は大学一年の終わり、1973年3月11日に教会の礼拝に初めて出席し、そこで信仰を持ったことです。 当時、「剣道を通して、人生の柱を見出す」と友人たちにも語っていた私でした。
初めて出席した石橋キリスト教会の礼拝で、有田優(ありた まさる)牧師の語るメッセージ、「神はあなたがどのような罪人であるか、すべてご存知の上で、あなたに『友よ』と呼びかけてくださり、『私のもとに来なさい。』と招いておられます。」に深く心を探られ、イエス・キリストを私の罪からの救い主、人生の主として信じました。
この時から、十字架上ですべての人のために自らのいのちを捧げられた、キリストの「捨て身の愛」、すなわち
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(新約聖書・ヨハネの福音書 15章13節)
との、キリストのことばが、私の信仰の土台となったのです。
そして・・・、今一つの鍵の言葉もお話ししたいと思います。
大学入学と同時に入部した剣道部では、日々の激しい練習がありました。
私たちの卒業の翌年、昭和52年に九段を授与された佐々木季邦(ささき すえくに)範士から、合宿などの折にいくつかの剣道の奥義について教えを受けました。
その中に次の歌があります。
「山川の瀬々に流るる栃殼も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」
私は、ここに剣道の奥義「捨て身」の精神、「身を捨ててこそ生きる」が、キリストの十字架の死と復活を指し示しており、まさに合一、同じ生き方であると心に受け止めたのでした。
これが、私の「剣道とキリスト教」の原点なのです。
ーーーーー
<写真>
左:神学生の2年目、奉仕先の「港キリスト教会」の礼拝メッセージのためにおいでくださった、有田優先生ご夫妻と私。
右:大阪府立大学剣道部の「佐々木季邦先生ご夫妻を偲ぶ会」(2015年10月17日)で展示された、佐々木先生の肖像写真と「剣道日本」(1985年1月)の表紙。
ーーーーー