キリスト教
剣道の範士、キリスト教の範士
2021/07/08 03:27 Filed in: 剣道とキリスト教
「剣道の範士、キリスト教の範士」
実際に指導や薫陶を受けたことを前提とすると、剣道ではいつも二人の先生(師範)を思い浮かべます。
キリスト教信仰では、・・・・一人の牧者を「師範」と思い起こしますし、出会った数名の伝道者の先生方も、「師範」と呼べるのかも、と思わされます。
最も、折々にその姿に習うべき「我が師」は、剣道、信仰ともに、大勢おられるのかもしれません。
しかし・・・、「自ら範を示す」という意味で「師範」となるべき年齢を、はるかに過ぎてしまっている<私>のようにも思わされます。
・・・・・
一人の牧者が召天されて、7月20日でちょうど三十年。
<私>、来月には「古来稀なり」の「マイルストーン」、あるいは「一里塚」。(^◇^;) 💦
ところで、剣道の「範士」の称号は、八段(剣道の最高の段)をはるかに超えて与えられるものですが、キリスト教の「範士」の称号は、どのように与えられるのだろう?
使徒パウロが語った「義の栄冠」が、それなのかもしれない、とも思う昨今です。
●『天に帰られた伝道者の姿と信仰を覚えて』 クリック↓
https://piyo-bible.com/blog/files/dendosya-no-sugata-to-shinko.html
ーーーーー
使徒パウロが、弟子のテモテに送った2通の手紙。
(テモテへの手紙 第二 4章1〜8節)
1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
実際に指導や薫陶を受けたことを前提とすると、剣道ではいつも二人の先生(師範)を思い浮かべます。
キリスト教信仰では、・・・・一人の牧者を「師範」と思い起こしますし、出会った数名の伝道者の先生方も、「師範」と呼べるのかも、と思わされます。
最も、折々にその姿に習うべき「我が師」は、剣道、信仰ともに、大勢おられるのかもしれません。
しかし・・・、「自ら範を示す」という意味で「師範」となるべき年齢を、はるかに過ぎてしまっている<私>のようにも思わされます。
・・・・・
一人の牧者が召天されて、7月20日でちょうど三十年。
<私>、来月には「古来稀なり」の「マイルストーン」、あるいは「一里塚」。(^◇^;) 💦
ところで、剣道の「範士」の称号は、八段(剣道の最高の段)をはるかに超えて与えられるものですが、キリスト教の「範士」の称号は、どのように与えられるのだろう?
使徒パウロが語った「義の栄冠」が、それなのかもしれない、とも思う昨今です。
●『天に帰られた伝道者の姿と信仰を覚えて』 クリック↓
https://piyo-bible.com/blog/files/dendosya-no-sugata-to-shinko.html
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使徒パウロが、弟子のテモテに送った2通の手紙。
(テモテへの手紙 第二 4章1〜8節)
1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
初歩をもう一度
2020/10/14 01:29 Filed in: 剣道とキリスト教
『初歩をもう一度』
昨日(10/13)の剣道の練習。
火曜日は、小学生・中学生の練習が中心です。
8時20分ごろから練習終了の50分ぐらいまで、基本練習と先生との地稽古一本の練習ができ、幸いでした。
ただいま、正しい「面打ち」の練習中。
剣道を習いたての子どもたちに負けないように、私も稽古中です。
最後の15分ぐらいは、子どもたちとの地稽古の時もあります。
最近は、新しく練習を開始した一般の方や子どもたち(まだ、面や防具はつけていません)、4〜5名も練習中。
参加者が増えてきた感じです。
ーーーーー
● 「年数からすれば教師になっていなければならない」
「基本」ができていないと、上達はなかなか難しいものです。
キリスト教信仰においても、この点は、厳しく戒められています。
<新約聖書・ヘブル人への手紙 5章12〜14節>
12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
「剣の道」も、「キリストの道」も、55年と47年。
厳しい「戒めのことば」に直面している感を覚えます。
昨日(10/13)の剣道の練習。
火曜日は、小学生・中学生の練習が中心です。
8時20分ごろから練習終了の50分ぐらいまで、基本練習と先生との地稽古一本の練習ができ、幸いでした。
ただいま、正しい「面打ち」の練習中。
剣道を習いたての子どもたちに負けないように、私も稽古中です。
最後の15分ぐらいは、子どもたちとの地稽古の時もあります。
最近は、新しく練習を開始した一般の方や子どもたち(まだ、面や防具はつけていません)、4〜5名も練習中。
参加者が増えてきた感じです。
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● 「年数からすれば教師になっていなければならない」
「基本」ができていないと、上達はなかなか難しいものです。
キリスト教信仰においても、この点は、厳しく戒められています。
<新約聖書・ヘブル人への手紙 5章12〜14節>
12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
「剣の道」も、「キリストの道」も、55年と47年。
厳しい「戒めのことば」に直面している感を覚えます。
Twitter 「剣道とキリスト教」No.1〜3
Twitter 「剣道とキリスト教」No.1〜3
<写真> 『剣道とキリスト教』
第17回 大阪学生剣道連盟 OB・学生合同研修会
(2016年12月6日 ・関西大学 にて)
<写真> 『剣道とキリスト教』
第17回 大阪学生剣道連盟 OB・学生合同研修会
(2016年12月6日 ・関西大学 にて)
「剣道とキリスト教」1
私の剣道とキリスト教の原点。
佐々木季邦師範の言葉「山川の瀬々に流るる栃殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」と有田優牧師の「キリストはあなたを友として招いておられます」、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はない」のキリストの言葉です。 pic.twitter.com/aTzTXb5jIR
「剣道とキリスト教」2
— PeterPooh1 (@PiyoGuma) June 29, 2020
「礼の原点は、誠意・尊重・敬愛等の心情の発露である。」(剣道みちしるべ:佐々木季邦著)は、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢ぜず、高慢になりません。礼儀に反することをせず・・、愛は決して耐えることがありません。」の教えそのものです。 pic.twitter.com/HtS4BhsrT8
「剣道とキリスト教」3
— PeterPooh1 (@PiyoGuma) June 29, 2020
「平常心」「不動の心」が大切。しかし、「四戒:驚・懼(く)・疑・惑」すなわち、驚き、恐れ、疑心暗鬼、惑いが起こる今。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また わたしを信じなさい。」とキリスト。永遠から今を見る。ここに平常心あり。 pic.twitter.com/D2oqzCT3cM
剣道は、究極のコミュニケーション!
剣道は、究極のコミュニケーション!
左膝を痛めていたので、剣道の練習はしばらく休んでいました。
今日(12/13)は一ヶ月ぶりに、総合体育館の二階、武道室で行われている、本部道場の練習に参加。
軽めの練習(6割くらい)でセーブしました。
92歳の師範と、60歳台のN先生と、本部道場代表のT先生との練習。
早めに、15分くらい前に練習を終えて、面を外して素振りをしていると、近づいて来られた師範が、にこやかに「剣道は精神、理合、許すところ・許さざるところ、の鍛練です。闇雲に打ち込んでは上達しません。」と声をかけてくださいました。
短い時間ですが、いつも、大切な教え。
竹刀の握り方、左手と右手の使い方、打ち方も。
私にとっては、なかなか習得が難しい教え「理合(りあい)」、究極のコミュニケーションの領域です。
知ったこと、分かったことと、体得しているか否かは、全く違いますね。
ーーーーー
神学校で、神学生たちを前に「キリスト教人間学」(旧講座名・「教育心理学・発達心理学」)を家内と二人で教えていた時のメインテキスト『バウンダリーズ:境界線』(ヘンリー・クラウド/ジョン・タウンゼント 著/中村佐和・中村昇 共訳/地引網出版 / 2004-10/1 発行)のことを思い出していました。
この本が出版されて間もない時に、大阪のジュンク堂書店で神学校の授業用にふさわしい本がないか、家内と探しに行っていて、見つけました。(2005年4月)
それで、神学校の授業講座名も「キリスト教人間学」に変更。
この講座名で再スタートした頃、翻訳者の中村佐知さん(アメリカ在住)にメールで連絡をして、いろいろアドバイスもいただきました。
当時、教会内の対人関係(牧師・役員・教会員)で悩みを抱えたり、心身共に疲れを覚えて通院や休業、退職を余儀なくされた牧師たちの事例が、関西地域の各教団・教派の諸教会でも見受けられるようになっていました。
それから、15年。
対人関係における「バウンダリーズ」の大切さ、良きコミュニケーションを培うことの重要性については、日本の社会でも当然の基本的知識として共有されて来てはいます。
ただ、お互いに、どれだけ「体得」しているかは、別なのかもしれません。
教会においても、社会の様々な領域でも、良き人間関係や互いに敬い尊敬する「良きコミュニケーション」を培う(体得する)ことは、本当に大切ですね。
聖書の教え、剣道の教えも、共通しています。
●<聖書の教え>
「愛をもって真理を語り」、「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
●<剣道の精神・キリスト者の生き方>
「円満」「柔和に穏やかに」
・小野派一刀流 第17代宗家:笹森建美師 の言葉。
(日本基督教団 駒場エデン教会牧師 / 2017年8/15 召天)
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『人がその友のために』 〜共通の奥義〜
『人がその友のために』
<剣道とキリスト教_01>
「剣道とキリスト教って、どんな関係があるの?」と身近な方々や同僚の牧師からも問われたことがあります。
この問いに対する答え、キーワードは、「友のために」と「捨て身」です。
私は、中学2年の時から五十数年間剣道を練習しています。その中での一大転機は大学一年の終わり、1973年3月11日に教会の礼拝に初めて出席し、そこで信仰を持ったことです。 当時、「剣道を通して、人生の柱を見出す」と友人たちにも語っていた私でした。
初めて出席した石橋キリスト教会の礼拝で、有田優(ありた まさる)牧師の語るメッセージ、「神はあなたがどのような罪人であるか、すべてご存知の上で、あなたに『友よ』と呼びかけてくださり、『私のもとに来なさい。』と招いておられます。」に深く心を探られ、イエス・キリストを私の罪からの救い主、人生の主として信じました。
この時から、十字架上ですべての人のために自らのいのちを捧げられた、キリストの「捨て身の愛」、すなわち
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(新約聖書・ヨハネの福音書 15章13節)
との、キリストのことばが、私の信仰の土台となったのです。
そして・・・、今一つの鍵の言葉もお話ししたいと思います。
大学入学と同時に入部した剣道部では、日々の激しい練習がありました。
私たちの卒業の翌年、昭和52年に九段を授与された佐々木季邦(ささき すえくに)範士から、合宿などの折にいくつかの剣道の奥義について教えを受けました。
その中に次の歌があります。
「山川の瀬々に流るる栃殼も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」
私は、ここに剣道の奥義「捨て身」の精神、「身を捨ててこそ生きる」が、キリストの十字架の死と復活を指し示しており、まさに合一、同じ生き方であると心に受け止めたのでした。
これが、私の「剣道とキリスト教」の原点なのです。
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<写真>
左:神学生の2年目、奉仕先の「港キリスト教会」の礼拝メッセージのためにおいでくださった、有田優先生ご夫妻と私。
右:大阪府立大学剣道部の「佐々木季邦先生ご夫妻を偲ぶ会」(2015年10月17日)で展示された、佐々木先生の肖像写真と「剣道日本」(1985年1月)の表紙。
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