千手観音?、それとも、対処できる秘訣?
『千手観音?、それとも、対処できる秘訣?』(No.6)
(動画:5分)
千手観音は、直面するさまざまな事柄に対して、知恵や経験、道具、手段、アイテムで対応できる者になりたいという、人間の願望の表れではないでしょうか。
「剣禅一如」を説き、柳生但馬守宗矩をして柳生新陰流の地位を確立させた人物が、臨済宗の僧侶、沢庵宗彭です。ある時、沢庵は「とらわれない心」すなわち「不動智」を説く中で次のように話しました。
・・・・・
<中略>
ーーーー
何事にも心とらわれずに、動揺することなく、あらゆることに対して「対処できる秘訣」はあるのでしょうか?
https://youtu.be/Lsb11mV6KAg
2022_4/29
大阪公立大学 剣道部 発足記念式典・稽古会
大阪府立大学と大阪市立大学が統合され、4月から新たな剣道部がスタートしました。
両大学の学生(32名)と、OB会(府大:陵剣会/市大:剣友会)による「剣道部 発足記念式典・稽古会」が行われました。
日時:2022年4月9日(土)
発足記念式典:10:00〜11:00
稽古会:11:30〜12:40
会場:大阪公立大学 体育館(中百舌鳥キャンパス)
●「大阪公立大学体育会剣道部 発足記念式典・稽古会」の練習風景
(動画2分:松永・井草、他)です。
久しぶり(3、4年ぶり?)に、学生の皆さんと練習でき、幸いなひとときでした。
前列の元立ち(左)は、松永先輩で、私が一回生(1972年)の時の主将です。
左上段を得意とされますが、学生時代は背の高い松永さんの面打ちに圧倒された思い出があります。
● YouTube
https://youtu.be/hRbp_flIz5A
● 大阪公立大学体育会剣道部 発足記念式典・稽古会_A (動画:12分)
https://youtu.be/bvRQCeSl9tI
● 大阪公立大学体育会剣道部 発足記念式典・稽古会_B (動画7分)
https://youtu.be/vdXGe2dWw0Y
「胴打ち後の残心」の注意点について
「胴打ち後の残心」の注意点について
先生との地稽古で「面ー擦上げ (返し)胴」を打ったのですが・・・。
打った瞬間までは良かったのですが、抜けた後の姿勢(残心)が悪く、間髪入れずに先生に面を打たれました。
この状態だと、「一本」にはなりませんね。
日頃、本部道場の庄司師範から言われていた教えを思い出しました。
ーーー
・通常の面打ちの場合で注意すること
中段の構えから胴に打って出る時も、打った瞬間も、また相手から右に抜ける時(ちょうど、相手の真横)まで、相手の「目」を見るようにする こと。
子どもたちとの稽古の時も、師範からのこの教えを伝えています。
胴打ちの習いたてのときは、どうしても打とうとする相手の胴の部分を見てしまいがちになります。
すると、視線は下向きとなり、打った時の姿勢が崩れたり、竹刀がいわゆる「平打ち」になっていたりします。
相手の目を見たまま真っ直ぐに打ちに出て、打突の部位(胴)も見ないで胴を打ち、そのままできるだけすれ違う時も横目で相手の目を見るようにすると、自然にとても綺麗な胴打ちとなります。
上手く胴を打てなかった子どもたちが、この一言で綺麗な胴打ちとなります。
不思議ですね!
ーーー
ということで、写真では先生の「面」に応じて擦り上げ(受け止め)、返して「胴」を打つまでは良かったですが、抜ける時に<視線が下向き>になっており、体が崩れてしまっていました。
また、抜けた後も「日本剣道形」の7本目のように、間合いが切れているか、相手を見ているかどうか、ここが大切!
教えられたことを、自ら<体得>するのは、なかなか難しいものです。
庄司典雄師範との練習__2020-10/23
2020年10月23日の「本部道場」での庄司典雄師範との練習です。
● <練習のポイント>
・ 師範の「面ー抜き胴」
・ 師範の「面ー磨り上げ(切落し)面」
・ 師範の「面ー小手・胴
・ 師範の「(先の)小手」
毎回、必ず、面を付けて最初に庄司師範の指導をいただくために、小中学生とともに並んでいます。
柔らかな「風」のような動きの師範と剣を合わせると、自分の体が重くなり、スローモーションのように感じます。
不思議な感覚です。
(90歳代前半の師範と、60歳代最後の年の私。)
一本一本、なんとか基本に忠実に練習に励みたいものです。
必勝の神機
『必勝の神機』
〜「気理合一」を目指して〜
最近、小野派一刀流 宗家の笹森順造先生のいくつかの 言葉を思い起こします。
「必勝の神機」、「気理合一」、「日本人の取らざるところ」・・・。
「必勝の神機」とは、何でしょうか?
剣道の教えと、聖書の奥義「圧倒的な勝利」について、お話しします。
2021-7/12
・YouTube 動画:16分
剣道の範士、キリスト教の範士
実際に指導や薫陶を受けたことを前提とすると、剣道ではいつも二人の先生(師範)を思い浮かべます。
キリスト教信仰では、・・・・一人の牧者を「師範」と思い起こしますし、出会った数名の伝道者の先生方も、「師範」と呼べるのかも、と思わされます。
最も、折々にその姿に習うべき「我が師」は、剣道、信仰ともに、大勢おられるのかもしれません。
しかし・・・、「自ら範を示す」という意味で「師範」となるべき年齢を、はるかに過ぎてしまっている<私>のようにも思わされます。
・・・・・
一人の牧者が召天されて、7月20日でちょうど三十年。
<私>、来月には「古来稀なり」の「マイルストーン」、あるいは「一里塚」。(^◇^;) 💦
ところで、剣道の「範士」の称号は、八段(剣道の最高の段)をはるかに超えて与えられるものですが、キリスト教の「範士」の称号は、どのように与えられるのだろう?
使徒パウロが語った「義の栄冠」が、それなのかもしれない、とも思う昨今です。
●『天に帰られた伝道者の姿と信仰を覚えて』 クリック↓
https://piyo-bible.com/blog/files/dendosya-no-sugata-to-shinko.html
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使徒パウロが、弟子のテモテに送った2通の手紙。
(テモテへの手紙 第二 4章1〜8節)
1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
何かを知っていると思う人
ご視聴いただけましたら感謝です。
・ 2020/12/20 投稿記事『知っている?』:YouTube 動画にて再録(2021- 6/22)
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『剣道とキリスト教』
知っている?(No.4)
聖書の使徒パウロの言葉と、「剣禅一如」を説いた沢庵宗彭の「不動智神妙録」の一節からお話しいたします。
「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」
使徒パウロの言葉
(新約聖書・コリント人への第一の手紙 8章2節)
国内外の政治動向や時事問題に関連する<事実の断片>をもって、それが全てのように言い、「あなたもこれを知るべきだ」と 主張するケースや言動を目にします。
昨年のアメリカ大統領選挙のニュース、今年の5月から始まった新型コロナウィルスのワクチン接種の有効性や、ワクチンそのものを否定する見解などにおいてです。
現在は、facebook や Twetter などのSNS、ブログ、インターネット上でのシェアやコメントなど、個人でも様々な形で意見や見解を発信できることは、幸いなことではあります。
しかし、情報収集も「するかしないか」も含めて、その人(「知るべきだ」と迫られた人)の主体性にあることを心に留め、情報を発信する者は、尊重していくべきだと思うのですが・・・。
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● YouTube 『剣道とキリスト教』
知っている?(No.4)
https://youtu.be/YNd9fq4Ux-Y
礼に始まり礼に終わる
毎週火曜日と金曜日は、小学生、中学生を中心に、多いときには、大人も含めて25名ほどが練習に参加しています。
2年ほど前から、小学生が増えてきているように思います。
保護者の皆様も熱心に練習中も見学されています。
● 練習前の「礼」
剣道では、他の武道(柔道、空手、求道など)と同様に、段位の上(六段)の人から順に一列に整列して「着座」の声とともに正座します。
その後、手のひらを組んで「黙想」の声でしばし黙想し「やめ」の声の後、「正面に向かって」の声で、先生方も向き直り、共に同じ「正面」に向いて「礼」の声で一礼をします。向き直った先生方に対し、「先生に対して」の声で八段、七段の先生方に「礼」、そして、八段、七段の先生方が互いに一礼される姿を見つめさせていただき、その後、もう一度、先生方と練習者一同が一礼します。
この後、各自、道場(体育館)のそれぞれの席に戻って、防具をつけるなどの準備をして練習が始まります。
まさに「礼に始まり」ですね!
もっとも、道場(体育館の練習場)に入るときにも、道場を出るときにも「一礼」してからの入退室は、剣道を始めたばかりの小学生、一般の方にも指導がされますが、案外、全くの初心者であっても、練習者の姿を見て「自ずと倣う」ようです。
そして、道場に入った後、何人かかの先生方と一礼(立礼)し、道場の隅でそれぞれ防具を着用し、各自それぞれ簡単な準備運動などをいたします。
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● 練習後の「礼」
練習後は、同様に一列に着座して「黙想」、「先生方への礼」、「正面に対しての礼」の順番での「礼」の時です。
先生方相互の礼を見させていただいた後、先生方と練習者一同、「ありがとうございました」との一礼をします。
その後、子どもたち、中学生、練習者、特に小学生は一斉にそれぞれの先生方の前に駆け寄って一列に正座し、一人一人、短く「ありがとうございました」の声とともに一礼をします。この時、先生がら一言二言の言葉と励まし、注意、教えをいただける時もあり、その時は嬉しいものです。
・ 「正面に向かって」の礼
今でも、剣道や武道の各流派の道場では、正面に「神棚」があったり、掛け軸が架けてある場合などもありますね。
私自身は、時々、最後の「正面に向かっての礼」の時は、大学時代の剣道部の 故 佐々木季邦師範(範士・九段)や、何人かの「剣道の師」と仰いだ先生方(すでに故人の方々)のことを、心に一瞬思い浮かべて一礼する時もあります。
通常は、キリスト者として「我が主、父なる神」に感謝と礼拝の思いで「正面に向かっての礼」をしています。
ただし、その場合でも「無心の心」での「礼」となっている感じもいたします。
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● 練習の時の「礼」
剣道の練習では、防具をつけてそれぞれの先生方の前に並んで、自分の練習の時を待ちます。
順番がきたら、1〜2歩ほど前に出て先生に対して立礼し、その後3歩ほど前に進み「蹲踞(そんきょ)」した後立ち上がってから中段の間合いをとって練習開始となります。
練習後は、蹲踞し、竹刀を左脇に5歩ほど後ろに下がり、立礼します。
また、練習の中で、一本打たれたときには、相手が残心から向き直ったその時に、あるいは互いにあらためて中段の構えに戻った時などに、打たれた側がほんのわずかに、あるいは、明確に頭を下げて「一礼」をします。
「参りました」、「一本いただきました」の思いの「一礼」とも言えますし、これは、相撲においても敗者が土俵を降りるときに一礼するのと同様です。
高校野球も同様ですが、勝者、敗者ともに一礼するのは、清い(きよい)、潔い(いさぎよい)、また、聖い(きよい:聖なる)世界であると言えましょう。
このように見てきますと、剣道も他の武道も、また、日本の国技の「相撲」も、道場の入退室、先生方や互いの一礼、また、「練習のはじめ」、「練習の時」、「練習後」の全てで「礼に始まり礼に終わる」武道であることに気づかされます
「礼に始まり」「礼の中で」「礼に終わる」剣道の練習。
まさに、「礼」は、武道、武士道の精神そのものとも言えましょう。
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写真:2019年 8月21日 撮影
練習後の「黙想」が終わって、先生方に一礼する直前。
先生方への礼のあとに、先生方と共に正面に向かっての一礼があります。
「日本剣道形」の動画
全日本剣道連盟の公式 YouTube で「日本剣道形(にほんけんどうかた)」の動画が、昨日(12/22)アップされていました。
私は、以前、DVD を購入しておりました。
新型コロナウィルス感染症の世界的蔓延の中、学校の剣道部や各地の剣道協会、剣道教室などでの練習の休止の状況が5月まで続いたこと、現在の第三波の感染拡大の状況もあり、全日本剣道連盟として対応されたのでしょう。
また、無断で DVDの動画を YouTube にアップしていたサイトの問題もありました。
公式 YouTube のサイトで、いつでも視聴して練習できるようになったのは、幸いです。
なお、「英語版」も、同時にアップされています。
<日本語版>
https://youtu.be/YkPkC_qcZF4
<英語版:English >
https://youtu.be/QIpPUdTCv-Y
面打ちと私の稽古納め
今週の金曜日は他の予定があるので昨日(12/22)で終了しました。
前半は、左の奥で先生から指導を受けて、ひたすら「面打ち」の練習。
大きく振りかぶっての面打ちと、一足一刀の間合いからの素早い面打ち。
大きく振りかぶっての面打ちは、どうしても右足が先に着いてしまう。
しばし、横で基本の面打ちをの練習をしている「子どもたちの面打ち」を先生に促されてじっと観察しました。
まず最初に、先に振りかぶってから前に出ての「基本の面打ち」を心がけることが必要。
早い面打ちは、手首を柔軟に、スナップを効かせての面打ちをするようにと、先生から教えていただきました。
体全体で前に出る感じの「面打ち」ができるように、今後の練習で修正、鍛錬したいと思いました。
後半は、元立ちで小学生たちの練習相手。
子どもたちは教えられたとりに、基本の良い面打ちをしてきます。
私(ピヨぐま剣士)よりも、上手ですね。
子どもたちのお母様たち? からクリスマスプレゼントをいただきました。
高級の焼き菓子6個入りでした。
(o^^o)
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今日(12/23)は天気がいいので、剣道着の洗濯日和。
(^○^)
知っている?
「知っている?」
使徒パウロは、ギリシャ南部のコリントの教会に宛てた手紙で、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(1コリンと 8:2)と述べています。
最近、国内外の政治動向に関連する<事実の断片>をもって、それが全てのように言い、「あなたもこれを知るべきだ」と 主張するケースや言動を目にします。
( facebookグループや、SNS、ブログ、インターネット上で。)
しかし、情報収集も「するかしないか」も含めて、その人(「知るべきだ」と迫られた人)の主体性にあることを心に留め、尊重すべきことであると思います。
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柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみむねのり=柳生新陰流の開祖)に向かって「剣禅一如」を説いた沢庵は、「不動智神妙録」において、次のように述べています。
「・・・我がしらさる事、何ほどかあらんに、しらすして、みななき事といはゞ、百の事を六つ七つしりて、その他のことを人いふに、みななしといはゞ、九十みななき事になりぬ。・・・」
<現代訳>
「自分の知らないことが、この世の中にどれほどたくさんあることでしょうか? 知りもしないことだらけなのに、自分の知らないことは、みんなないことだといおうとします。百のことのうち、六つか七つしか知らない者が、それ以外のことをいわれて、それは全部、ない事だといいます。すると、九十かそれ以上のことが、みな、ないことになってしまいます。・・・」
(p.212 『知らずに疑う愚かさ』 )
「不動智神妙録」沢庵宗彭(たくあん そうほう)著/池田諭訳/タチバナ教養文庫)
ーーー
時の嵐や渦には近づかないことが賢明のように思わされます。
そして、使徒ペテロ の手紙に記されているように、「柔和な心、恐れ敬う心、健全な良心」をもって、弁明していきたいものです。
(1ペテロ 3:16)
皆様の心が様々な流言や不安にさせる報道やコメント、人格や尊厳を省みないような言葉から守られますように、お祈りいたします。
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23)
・ 2020/12/20 投稿記事:YouTube 動画にて再録(2021- 6/22)
理合と打突の機会
昨日(12/18)の剣道では、久しぶりに3名の先生方との練習の機会が与えられました。
動画は、一人の先生との練習の前半部分です。
(写真は、左)
相手の気の起こりや動きに合わせての剣道、と言うことで、「理合(りあい)」に心がけていますが、まだ、隙がないのに突っ込んで行くと言う悪い癖が出てしまっています。
動画の後半の部分では、出ようとした瞬間に、先生の鮮やかな小手打ちをいただきました。
「相手の右小手を攻めながら、打突の機会を見極めるように」との師範の教えを心に練習に励みました。
「気理合一」を目指して
「気理合一」を目指して
最近、小野派一刀流 宗家の笹森順造先生と息子の笹森建美先生(駒場エデン教会 牧師/2017年 8月15日 召天・84歳)のいくつかの 言葉を思い起こします。
・クリックすると、拡大します。
本多庸一(津軽藩・横浜バンドの一人)から影響を受けて弘前教会で笹森要蔵の長男卯一郎が洗礼を受けました。そして、要蔵の末子、笹森順造先生(駒場エデン教会牧師、笹森建美先生の父)は、「母の懐に抱かれながら、神様の話を聞いて、自然に神様を信じるようになった」と話されていたとのこと。
今、笹森順造先生の『日本人のとらざるところ』の言葉を最近、とみに思います。
「危急に臨んで気が騒ぐと、みずから敗を招くことになる。」
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大(パンデミック)の2020年。そして、アメリカの大統領選を始め、日本、ヨーロッパ、中国、アジアなどの国際政治や株式・金融市場、企業や組織、各職場の動向など。
また、コロナ第三波のなかで、先が見えない私たちの市民生活。
心騒ぐことの多い中ですが、「われらはつねに真鋭を尊び、気理合一を目差してはげみ、そこに初めて必勝の神機が出てくることを求めて進む」ものでありたいと願います。
「必勝の神機」とは、笹森順造先生がキリスト者であられることを思うと、明らかに、聖書のあの教え、あの言葉を踏まえておられるのだと思います。
聖書の「あの教え」、「あの言葉」とは・・・、
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(イエス・キリストのことば/ヨハネの福音書 16章33節)
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だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
・・・・・
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
(ローマ人への手紙 8章35〜37節:使徒パウロがローマの教会に宛てた書簡)
以下は、2016年の 4/16 に 「剣道とキリスト教」のブログや、facebook に投稿した一文です。
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「日本人のとらざる所」
(2016年 4月16日)昨日(4/15)の川西市剣道協会(本部道場)での練習の合間に、今年89歳になられる師範が二人の方に語っておられました。
私も、すぐ横で正座していたので、拝聴させていただきました。
「理合(りあい)のわからぬままに七段で終えてしまう者もある。」
剣の道はなかなか厳しいものと、あらためて思わされました。
帰ってから、久しぶりに笹森順造先生の『剣道』の本を取り出し、幾つかの項目を読んでみました。
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付録 三、剣道・しない競技用語解説
・「理・り」----- わざを出す心の働きにかなう道理。この理に従って機会に乗ずること。
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第二編 競技指針
二、技術編
第二章 稽古の進め方
(乙)心術
第四節 心気理機術の五格
三、気理合一
まず気を静めて相手に対する。危急に臨んで気が騒ぐと、みずから敗を招くことになる。たとえば水動いて魚驚くようなものである。平常から気を丹田に納め、驚、怖、惑、疑、憶、侮、驕の七病を去り、敢然として、理の則るべき端を捉え得るようにならなければならない。
豪気も正理を逸すると百害あって一利ない。たとえば、流水原野に流れても、横溢氾濫したのでは田畑人畜に禍いを流すのみである。理に則り道によって奔れば発電、灌漑、飲料みな役に立つ。
稽古における気合も強弱、虚実、掛引などに使うよりも最も大事なことは理によって勝つことである。打突の技にしても、理合正しく筋道正しく法に則って使うと、止むに止まれぬ尊い勝が出る。
希勝や騙打ちはわれらの恥じる所、兵は詭道なりという孫氏の言は日本人のとらざる所である。
われらはつねに真鋭を尊び、気理合一を目差してはげみ、そこに初めて必勝の神機が出てくることを求めて進むのである。
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写真:
1. 剣道時代_1976-04_笹森順造範士急逝
2. 剣道時代_1976-04_笹森順造先生をしのぶ
3. 笹森順造 著『剣道』(左)
佐々木季邦 著『剣道 みちしるべ』(右)
自分を守ること=間合い
先週の金曜日(11/20)の剣道。
師範から、切り返しの注意点として、「一本めの切り返しは、面から面までを一呼吸で行うように。」と、「面を打った時に、面打ちが深すぎるので 物打ち(竹刀の先から 25〜30センチの部分)で打つように。」との助言をいただきました。
写真:庄司師範(九十歳代の先生です)
そして・・・、この日の一番の教えは、練習前に声をかけてくださったときの言葉です。
「剣道では、攻撃(打ち込むことなど)とともに、自分を守るようにすることが大切です。自分を守るとは、相手との間合いなのです。」
以前、担当していた神学校(福音聖書神学校)の「教育心理学(発達心理学)」( 2005年に『キリスト教人間学』に講座名を変更)の授業で、テキストとして使った、『境界線(バウンダリーズ)』の本を思い浮かべていました。
・2005年4月に、「バウンダリーズ(境界線)」の概念の紹介と人間理解を深めるために、『キリスト教人間学』の講座を開講し、6年間にわたり妻と共に二人で授業を担当。
対人関係で、「踏み込まれている」ことさえわからずに傷を受けていたり、相手の領域に「踏み込みすぎて」感情的にも実際的にも互いの関係が悪くなっていたり、心身ともに疲れ果ててしまっていることもありますね。
『境界線(バウンダリーズ)』の本は、とても大切な教え、まさに、対人関係の「間合い」を知るために、オススメの一冊です。
<Amazon>
https://amzn.to/35Qyn5B
『境界線』
ヘンリー・クラウド/ジョン・タウンゼント 著
中村佐知・中村昇 共訳
地引網出版(2004年10月1日)
<参考>
『剣道は、究極のコミュニケーション!』
面打ちの基本練習
昨日(11/28)の剣道の練習。
一人の先生との切り返しと面打ちの基本練習。
「相面打ち」(両者一緒に、あるいは、受け手の方で「後の先」のように面を打つ)では、相手の打ち下ろす剣をわずかに弾いて、正面打ちができるようにと、練習しています。
「手の内(握り)」や「真っ直ぐ」に打ち下ろしているか、打った瞬間の「左手の握りの確かさ」や「右手の鍔元の親指と人差し指の絞り方」が正しいのか、まさに「茶巾絞り」ができているか、そして、「テコの原理」で、「物打ち(竹刀の先から 25センチほど)」のスピードが出ているか、打った瞬間に「両手は正しく伸びている」のか、課題山積の「正面打ち」です。
先週金曜日(11/20)の剣道では「切り返し」の練習の時に、師範から「面を打った瞬間が深く面を打ちすぎています。物打ちの部分で打つように」との指導を受けました。
「面打ち」は、奥が深い!!
ゴールは、遥か彼方・・・、みたいな感じも受けます。
「目標に向かって、一心に!」(聖書)
高嶺を目指そうではないか
昨日(10/23)の剣道は、師範と3人の先生方に稽古をつけていただきました。
そのあとは、小学生たちとの練習の元立ちで。
大汗をかいた後の剣道着のままの帰宅なので、ちょっと寒い!!
新型コロナウィルスの拡大以降、8ヶ月ほど更衣室とシャワーが使えません。
早く温水シャワー、使えるようになるとよいのですが・・・。
師範からは、「気・剣・体 の一致」が崩れているので、心がけることと、<騙(だまし)>は避けるようにとのこと。
(だまし討ちの「騙し」ですね。)
最近、様々な「技(わざ)」が使えるようになってきたこともあり、「心」が囚われていたようです。
「技」に頼ると、体も、心も、剣も崩れます。
もちろん、師範や先生方には通じません。
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剣の道は、階段を一つ登ると、さらに、上の数段が見えてくる。
キリスト者の信仰や「聖化」も、同様だと思わされます。
「高嶺を目指そうではないか」との声が聞こえてくるようです。
(*写真:庄司師範との練習)
初歩をもう一度
昨日(10/13)の剣道の練習。
火曜日は、小学生・中学生の練習が中心です。
8時20分ごろから練習終了の50分ぐらいまで、基本練習と先生との地稽古一本の練習ができ、幸いでした。
ただいま、正しい「面打ち」の練習中。
剣道を習いたての子どもたちに負けないように、私も稽古中です。
最後の15分ぐらいは、子どもたちとの地稽古の時もあります。
最近は、新しく練習を開始した一般の方や子どもたち(まだ、面や防具はつけていません)、4〜5名も練習中。
参加者が増えてきた感じです。
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● 「年数からすれば教師になっていなければならない」
「基本」ができていないと、上達はなかなか難しいものです。
キリスト教信仰においても、この点は、厳しく戒められています。
<新約聖書・ヘブル人への手紙 5章12〜14節>
12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
「剣の道」も、「キリストの道」も、55年と47年。
厳しい「戒めのことば」に直面している感を覚えます。
7ヶ月ぶりの師範との練習
私も、練習の機会が与えられて、感謝でした。
・常に、相手との間合いを取ること
(相手の動きに応じて、前に、また、後ろに)
・左拳(こぶし)を下に、剣先を効かせること
・相手の右小手を攻めること
・打突した瞬間の 気剣体の一致
・攻めて、相手が出てくるところを打つ
いくつかの注意と心得を教えていただきました。
3人の先生方とも練習のひと時が与えられ、幸いな金曜日の練習でした。
● 本部道場 にて
範を垂れる
教えることは、ある程度の知識と技術、経験があればできる。
しかし、範を垂れる(模範を示す)ことは、本当に難しい。
自らも、ある「境地」に達しているか否かが問われます。・・・。
ーーー
キリスト者としての自らは、どうなのだろう?、とあらためて問いかけられたようにも感じました。
我らが主、イエス・キリストも、使徒パウロも、ペテロも、「模範を示しました」と語っていますね。
<イエス・キリスト>
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。 (John 13:15)
<パウロ>
私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。 (2Th. 3:9 )
<ペテロのキリストへの言及>
このためにこそ、あなたがたは召されました。
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残された。
(1Pet. 2:21)
ーーー
*写真: 昨日(9/1)の 練習
(本部道場にて)
剣先を抑えて(殺して)から
私は、本部道場の代表のT先生との久しぶりの稽古でした。
今まで出会った同世代の先生の中で、最も鋭い剣の使い手です。
練習後に、先生のところに行って、挨拶した時、「剣先(けんせん)」が効いているのに、闇雲に打ち込んできてはならない」との教えを受けました。
剣先を気にせずに思い切って打ち込んでいけば、喉や胸への「突き」を入れられるし、避けようとすれば、「逃げ」になるし、なかなか難しい。
「剣先を抑えて(殺して)から打ち込むように」とのことでした。
正面から「闇雲に」打ち込むか、初めから少し外して「中心を攻めずに」打ち込み、なかなか一本にならないか、私の場合、ちょっと極端。
性格、人生、姿、それから・・・、牧師としての伝道や牧会にも現れていたようで・・・。
一時間ほど順番を待って、先生との7分ぐらいの練習の1回のみでしたが、「見取り稽古」としても、「地稽古」としても、貴重な練習でした。
・写真は、右端が私。
姿がごっつい?
「ピヨぐま剣士」だから?
● YouTube は、ちょうど3年目の10月、T先生との練習。
最後は、だいぶへばっていました。
初めての「CPAP剣道マスク」
昨日(8/7)の剣道の練習。
初めて「CPAP剣道マスク」を使ってみました。
呼吸がだいぶ楽でした。
左側のハンカチ(少し大きめ)は三角にして、「不織布マスク」の代わりに使うこともあります。
・<最初の写真>
師範(白いズボンの方)の隣が私です。
*参考:究極の「剣道用マスク」の使用方法
(注):CPAP(シーパップ:持続陽圧呼吸療法)--- 睡眠時無呼吸症候群の治療に使う装置
(川西市総合体育館)
究極の「剣道用マスク」の使用方法
全剣連(全日本剣道連盟)でもマスク着用の奨励(必須!)や、マスク着用しての飛沫状況などの実験、研究、また、各有名武道具店での専用マスクなどの開発を進めていますが、これといって、良い方法がなかなか見つかっていないようです。
● 感染拡大予防ガイドラインのマスクについて(新たな調査結果を受けて) 2020-6/24
https://www.kendo.or.jp/information/20200624/
私も、不織布マスクの着用では、口の中に不織布が入ってくることや、呼吸時の空気と取り入れる面積(少し開けた口の大きさ)の問題があって、本当に呼吸が苦しい状況でした。
日本手拭いをマスクがわりに使ったり、大きめのハンカチを三角に折ってマスクにしたり、・・・、色々試してみました。
キッチンで使う、ステンレス製の水切りの小さなカゴを使おうかと思ったりしましたが、それをマスクに縫い付けるのも面倒ですし、金具が口に当たるのも、痛いなあ〜〜。と思っていました。
本日、「アイデア」が閃きました!!
私、もう10年くらい「睡眠時無呼吸症候群」で、CPAP を使っています。
そうだ、あれが使えるかも?!
ということで、色々試してみました。
CPAP剣道マスク
ーーー
<結論>として、三角形のプラスチックの、口と鼻に当たる部分(青いプラスチックの枠とシリコンゴム)のみを外して口と鼻に当て、その上に「不織布マスク」をつける。
これは、非常に簡単で、また、そのまま面をつけることもできました。
大ヒット!!でした。
以前使っていたもの(口に当てる部分)があるので、これを利用します。
「睡眠時無呼吸症候群」の CPAP利用中の 剣道愛好家の皆様、これは、まさに、オススメ!です。
口と鼻の部分は、シリコンゴムなので、これも、とても楽。
空気を取り入れる面積も、この三角の部分すべてなので、呼吸がとても楽です!!
・なお、最近では、「マスクガードフレーム」も色々出ているようです。
剣道の「面」は、額と顎で固定するので、鼻と口までの「マスクガードフレーム」、一度探してみます。
キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―
キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―
駒場エデン教会牧師 笹森 建美
私は教会の牧師であると同時に、日本古来から伝わる小野派一刀流という剣術や、林崎流という抜刀術、直元流という大長刀術の宗家を継いでいます。そのため、「教会の牧師と剣道や武道とは矛盾しませんか」とよく聞かれます。「キリスト教と武道とは矛盾しないのか」という質問は、依然として日本の中に、キリスト教と武道は正反対の立場にあるのではないかという考えが存在するからでしょう。
内村鑑三がある人から武士道とキリスト教はなじまないのではという指摘を受けた時、彼は自分が武士であると誇りを持っていたので、憮然として「いや、そんなことはない。武士道とキリスト教は一致するのだ」と述べています。彼は特に強調して次のようなことを言っています。
「イエスとその弟子を武士の模範として見ることができる。例えば、キリスト教と武士道の共通点は、両者とも真実、あるいは正義、嘘をつかない、人をだまさないということをとても大事にしていることである。武士道は勇気であって義のために死を恐れない。一方パウロも、人から自分が恥を受けるようなことをしたくない、自分の誇りを失われるならば死んだほうがましだ、と言っているように、パウロこそ私たちの模範とすべき武士なのだ。」さらに、パウロの「私たちは生きるのも死ぬのも主のために生き、すべては主にあって益である。死ぬのも益である。生きるのも益である」という言葉を引用して、「生きるのも死ぬのも私の身によって何かが現されること。キリスト教の場合はイエスの栄光、神の栄光が現れること。武士道においては正義とか公正というものが現れること。そのためには命を懸けてもいいのだ。それが両者に共通する点なのだ」と述べています。
剣の道である武士道も、キリスト教信仰も、人の死に方あるいは生き方を真剣に問いかけているのです。
『葉隠』という本の中に面白い逸話があります。昔の武将の新田義貞が勝ち目のない戦に望んで行き、敵に囲まれて死ななければならなくなったときに、自分で首をかき切り、地面に穴を掘って自分の首をそこに入れて、その上に横になって自分の首を守り通した、というのです。著者の山本常朝はこのように言っています。「真の剛の者というのは何も言わずにそっと抜け出して死に赴くものである。相手をしとめる必要はない。黙って切り殺される者が剛の者なのだ。このような者は相手をしとめることができるものである。」つまり、本当に強い人は何も言わずそっと出て行き首を差し出して死ねる。そして、自分の首を差し出すことができる人、その人が実は相手に勝っているのだ。これが武士道の精神です。決してただの狂気ではありません。
キリスト教の信仰を思い起こしてみますと、キリスト教が世界に広まっていく過程で多くの迫害を受けました。最初に迫害を受けたステファノは、石を投げられて殺される時に、「私を殺そうとしている人たちは、何をしているのか分からないのです。彼らの魂をお赦しください」と天を仰いで祈っています。本当に馬鹿げた狂気にしか見えない行動です。その時にステファノを殺すことに賛成していた人がパウロでした。ステファノを殺すことに、すなわちクリスチャンを殺すことに自分の情熱を燃やしていたパウロが、その後回心しキリスト教を伝える側に変わってしまいました。ステファノの死は決して犬死にではなかったのです。彼の死こそが、パウロの魂の中にある何かに語りかけていたのです。初代のクリスチャンたちは、見方によっては、唯々諾々として殺されていきました。しかし逆に、それによって福音が全世界に及んでいったのです。
実は、この精神はイエス御自身にありました。イエスが十字架にかかった時にユダヤの人々はイエスを罵りました。「お前がもし本当に神の子ならば、今その十字架から降りてこい」、「何故今すぐ味方の軍勢を呼びここで革命を起こさないのだ。そうしたら我々はお前を信じよう。」その時に十字架のイエスは、神に対して「この人たちは何をしているのか分からないのです。彼らの魂を救ってください」と祈り、そして「ことは成就した」と言って十字架で死んでいかれました。もしイエスが十字架から降りて味方の軍勢を呼び革命を起こしていたら、一時的にはユダヤの国はイエスを王とする独立国になっていたかも知れません。歴史の中の一事件として、ナザレから出てきたイエスという男が独立を勝ち取ったという記事が歴史の一行に書かれたかも知れません。しかし、それはそれでおそらくおしまいであったでしょう。イエスが十字架について死なれたからこそ、今、全世界にイエスの教えが広がっているのです。
このようにキリスト教と武士道は非常に近いところにあるということを理解していただけるかと思います。ただ残念なことに、武士道そのものには「神からの救い」や「神の愛」という教えは見えてきません。内村鑑三はこのように述べています。「武士道がキリスト教に触れるならば、キリスト教の洗礼を受けるならば、世界で最も優れた教えになるであろう」と。その通りだと思います。武士道にはまだ限界があります。しかし、イエス・キリストの洗礼を受けるならば、武士道は世界に誇ることのできる一つの人間の生き方を示すものとなるでしょう。死が死で終わらない世界、死が命を満たす世界、それが私たちの本当に求めているところではないでしょうか。
私たちは、毎日何だか分からずに生かされているような生き方をしていますが、「本当にこれでいいのだろうか」と考えるはずです。その時に、自分の信じることに命を懸けることができるかどうか是非問いかけてみてください。その時きっと、聖書が教えていることが甘いロマンティックなものではなく、あなたは生きることによって死んでいるのか、死ぬことによって本当に生きようとしているのか、というチャレンジをしていることに気がついていただけるのではないかと思います。
(大学チャペル・ウィークでの説教より)
『青山学報』 2001年10月
「宗教感話」は、『青山学報』に連載されている、学内外でキリスト者としてよいお働きをされている方々に執筆していただいている、エッセイ的な読み物です。 執筆者の肩書きは当時のものです。
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*本文の掲載は、著者より承認を受けています。 (2012年9月27日)
*当初(リンク)は、青山学院宗教センターより承認を受けました。
(2006年6月9日)
井草晋一:ピヨ バイブル ミニストリーズ
*下をクリックし、PDFファイルでお読みください。
●キリスト教と武士道
<Amazon 「武士道とキリスト教」>
・電子書籍:クリック↘️
Twitter 「剣道とキリスト教」No.1〜3
<写真> 『剣道とキリスト教』
第17回 大阪学生剣道連盟 OB・学生合同研修会
(2016年12月6日 ・関西大学 にて)
「剣道とキリスト教」1
私の剣道とキリスト教の原点。
佐々木季邦師範の言葉「山川の瀬々に流るる栃殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」と有田優牧師の「キリストはあなたを友として招いておられます」、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はない」のキリストの言葉です。 pic.twitter.com/aTzTXb5jIR
「剣道とキリスト教」2
— PeterPooh1 (@PiyoGuma) June 29, 2020
「礼の原点は、誠意・尊重・敬愛等の心情の発露である。」(剣道みちしるべ:佐々木季邦著)は、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢ぜず、高慢になりません。礼儀に反することをせず・・、愛は決して耐えることがありません。」の教えそのものです。 pic.twitter.com/HtS4BhsrT8
「剣道とキリスト教」3
— PeterPooh1 (@PiyoGuma) June 29, 2020
「平常心」「不動の心」が大切。しかし、「四戒:驚・懼(く)・疑・惑」すなわち、驚き、恐れ、疑心暗鬼、惑いが起こる今。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また わたしを信じなさい。」とキリスト。永遠から今を見る。ここに平常心あり。 pic.twitter.com/D2oqzCT3cM
「コロナ後」4ヶ月ぶりの剣道の練習
昨日(6/19)は、ちょうど4ヶ月ぶりに剣道の練習に参加しました。
川西市総合体育館では「新型コロナウイルスの感染拡大防止」のため、3月から休館の措置がとられたことにともない、3月7日土曜日から練習中止となっていました。
今週の火曜日、6月16日(火)から再開しました。
体育館に入るときには、入り口で手の消毒、そして職員の方による「検温」がありました。
子どもたちも、一般(大人)も、だいぶ体力の低下があるので、6月いっぱいは防具をつけずに基本練習に徹するとの本部道場代表の先生のお話でした。
子どもたちも、マスク着用での練習なので、10〜15分おきぐらいに短い休憩と水分補給。
私も、昨日(6/19)から準備体操、素振り、柔軟体操で、火曜日と金曜日の練習に参加の予定です。
ーーーーー
大人は、各自での柔軟体操や素振の練習。
しばらくして、道場の片隅で庄司師範と話す機会があり、いくつかの 教えを受けました。
師範からは、
・剣道は「押して切る」、居合は「引いて切る」
・伸びのある打突の中に「張り」のある剣を目指すこと
私の面打ちと小手、胴打ちは、打ち終わった後、相手を見ていないとのことで、
・打ち終わったも相手を見るように
との注意と教えを受けました。
「やあ、どうだ。」
「参りました。」
の境地ですね。
これは、まさに「残心」!!
日常生活でも、いくつか思い当たる節も・・・・・。
汗!、冷や汗!!
「間合い」と「先(せん)」について
先日(3/30)、朝日新聞の WEB に『カエルとヘビの膠着状態のメカニズムを説明 -双方にとって後手に回って行動することが有利となる-』の記事がありました。
記事は「有料購読者」限定なので、詳しい記事がないかと調べてみると、京都大学のWEBに、記事と詳しい論文(PDF)が掲載されていました。
<カエルとヘビの膠着状態のメカニズムを説明 -双方にとって後手に回って行動することが有利となる>
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2019/200310_1.html
・論文(PDF)
図:トノサマガエルとシマヘビが対峙している時の様相(京都大学のWEBより)
結果は、・・・
剣道の「間合い」と「先(せん)」の理解そのもの!でした。
この2者(ヘビとカエル)は、生存そのものがかかっているので、まさに「真剣勝負」ですね。
このくらいの真剣さで剣道を練習すれば、もっと上達する!とは思います。
しかし、「先の先」も、「後の先」もなかな難しいものです。
それを超えた「大いなる先」も、剣道の奥義にはあるとのことですが・・・。
剣道歴55年、まだまだ、道は遠い。
(中学2年から剣道を続けています。)
それと、ちょっと、考えさせられたこと。
現在の「新型コロナウィルス問題」も、「先手必勝」ではなくても、たとい「後の先」でも、政府と地方自治体、国民あげて、確実に<先>を取りたいものです。
<京都大学の WEB>
・論文:カエルとヘビの膠着状態のメカニズムを説明 ―双方にとって後手に回って行動することが有利となる―
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2019/200310_1.html
<朝日新聞の記事:3/29(WEB)/3/30 夕刊に掲載>
https://www.asahi.com/articles/ASN3W5JX3N3VPLBJ004.html
https://www.asahi.com/articles/DA3S14422901.html
<YouTube>
ーーーー
2年半前の練習。(2017年10月24日)
1ヶ月以上剣道が休みなので、ビデオで「間合い」と「先」の研究。
2年半前と今と、どれだけ上達しているのだろう??
「間合い」と「先」は、「ヘビくんとカエルくんの真剣勝負」に倣って。
(^◇^;)
● 写真をクリックすると、 YouTube に移動します。
昨日(2/21)の剣道
昨日(2/21)の剣道。
師範(92歳)との練習では、いつも、渾身の面を打ち込んでいくのですが、すべて受け止められて、鮮やかな胴を打たれます。
師範の冴えのある剣さばきを習得したいものです。
・・・
3枚の写真は、ヤクルト時代の古田選手の写真とバット。
川西市総合体育館の一階のコーナーです。
最初の POD版『兜と剣』
ちょうど1年と少し前、2018年12月5日に Amazon 指定の大手出版会社 N-Pub の「著者向けPOD出版サービス」によって、電子書籍版と連動する形の Amazon POD(プリント・オンデマンド)で 最初に出版した『兜と剣』です。
大学の剣道部に入部した井関慎司は、剣道の練習に打ち込みながら、人生の道を見出そうとしていた。
そこで出会った、真実の道、人生の奥義とは?
牧師を目指した青年の40年余りの人生と、恩師たち友人たちとの出会いを描く短編小説。
2015年6月4日
大阪府立大学剣道部と、トロント大学剣道部(カナダ)との合同稽古
・前列の右端が、私(「剣道とキリスト教」サイト管理者)です。
・・・・・
<POD版の「海外展開』(2月より)>
この2月からの N-Pub による POD版の海外展開に伴い、「印刷・取扱」の費用が少しアップしたことにより、「定価」の改定が必要になりました。
当初、少しでも読者の方々が購入しやすいようにと、ロイヤリティ(POD版の著者への支払額)は、2.5円/一冊 に抑えていたので、現在、<マイナス 数十円>の表示となっています。
(^◇^;)
<POD版の文字の大きさ>
昨年、川西市剣道協会(本部道場)の剣道の師範(90歳代)に贈呈させていただいたところ、読んでくださった感想の、第一声が「文字が小さいので、ちょっと読みにくかったですね。」とのこと。
この機会に、10〜10.5 ポイントで、データを作り直して、N-Pub からの勧めにもあるように「新規出版(再出版)」をする予定です。
若い世代の皆さんは、特に、読みにくいことはないとは思いますが、私(60代)以上にとっては、文字は大きい方が良いですね。
<POD版の書籍の「定価」改定(再出版)>
2月中旬くらいの「POD版 再出版」を予定しています。
『兜と剣』の「定価」は、500円ですが、600〜700円くらいになりそうです。
昨日、「電子書籍」の著者の先生方に連絡したところですが、「PIyo ePub Books」として出版しているPOD版は、順次「再出版」による「定価の改定」をいたします。
なお、現在のところ、POD版の「海外展開」は、英語か外国語で書かれた POD版とのこと。
N-Pub には、「日本語」で書かれた POD版も、海外の Amazon のサイトから購入できるように、早い対応をお願いしています。
1/29 から 海外の Amazon でも POD版が購入できます。
(ただし、POD版として、日本語以外の言語を選択している場合)
・アメリカ
・イギリス
・ドイツ
・フランス
・イタリア
・スペイン
昨日(1/31)の剣道の練習
金曜日の練習は参加者も多いのですが、昨日はいつもより大人の参加者が少なかったです。
元立ちで、中学生や小学生の練習相手をしました。
子どもたちと練習すると、教えられることが多いですね。 時々、理想的な面打ちをしている、小学2、3年の子どももいます。 「おう、いい面打ちだ!」と声をかけますが、私には真似のできないくらいの鮮やかな「面打ち」なので、内心は、「参った!」の気持ちです。
剣道を習い始めた小学生のように、教えられた通りの「面打ち」をすれば、まさに、比類のない「面、一本」となることはわかりつつ・・・。
(^◇^;)
*動画(1分)は、サイズ(品質)を 480p にしています。
● 本部道場にて
(総合体育館 2F 武道室)
ーーーーー
年初の「師範の教え」
師範との練習。
渾身の「面」も・・・
(^_^;)
師範から、相手の剣を殺してから打ち込むようにとの指導をいただきました。
「気を殺す、剣を殺す、技を殺す」、言葉は知っていても、難しいものです。
師範は私の母と同い年です。
師範に倣って、90歳過ぎても剣の道を歩みたいものです。
ーーーーーー
キリスト者としては、人ではなく「霊的な実在者」に対する信仰の戦いにおいても通じる、勝利の道ですね。
*「霊的な実在者」ーーー「・・・空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊・・」
(新約聖書・エペソ人への手紙2章2節)
ーーーーー
別の場面では、「小手抜き面」を確実に打ったと思ったのですが、軽く突きを入れられていたようです。
ーーーーー
本年最後の剣道協会 本部道場の練習
しかし「理合」は、相手がいないと成り立たない。
まさにコミュニケーションの世界!
ーーー
本年最後の本部道場の練習に行ってきました。 (^○^)//
久しぶりの剣道なので、ゆっくり、ゆったりの練習でした。
小学生、中学生は、動きが機敏ですね。
思わぬところで、一本打たれることも。
剣道は、究極のコミュニケーション!
剣道は、究極のコミュニケーション!
左膝を痛めていたので、剣道の練習はしばらく休んでいました。
今日(12/13)は一ヶ月ぶりに、総合体育館の二階、武道室で行われている、本部道場の練習に参加。
軽めの練習(6割くらい)でセーブしました。
92歳の師範と、60歳台のN先生と、本部道場代表のT先生との練習。
早めに、15分くらい前に練習を終えて、面を外して素振りをしていると、近づいて来られた師範が、にこやかに「剣道は精神、理合、許すところ・許さざるところ、の鍛練です。闇雲に打ち込んでは上達しません。」と声をかけてくださいました。
短い時間ですが、いつも、大切な教え。
竹刀の握り方、左手と右手の使い方、打ち方も。
私にとっては、なかなか習得が難しい教え「理合(りあい)」、究極のコミュニケーションの領域です。
知ったこと、分かったことと、体得しているか否かは、全く違いますね。
ーーーーー
神学校で、神学生たちを前に「キリスト教人間学」(旧講座名・「教育心理学・発達心理学」)を家内と二人で教えていた時のメインテキスト『バウンダリーズ:境界線』(ヘンリー・クラウド/ジョン・タウンゼント 著/中村佐和・中村昇 共訳/地引網出版 / 2004-10/1 発行)のことを思い出していました。
この本が出版されて間もない時に、大阪のジュンク堂書店で神学校の授業用にふさわしい本がないか、家内と探しに行っていて、見つけました。(2005年4月)
それで、神学校の授業講座名も「キリスト教人間学」に変更。
この講座名で再スタートした頃、翻訳者の中村佐知さん(アメリカ在住)にメールで連絡をして、いろいろアドバイスもいただきました。
当時、教会内の対人関係(牧師・役員・教会員)で悩みを抱えたり、心身共に疲れを覚えて通院や休業、退職を余儀なくされた牧師たちの事例が、関西地域の各教団・教派の諸教会でも見受けられるようになっていました。
それから、15年。
対人関係における「バウンダリーズ」の大切さ、良きコミュニケーションを培うことの重要性については、日本の社会でも当然の基本的知識として共有されて来てはいます。
ただ、お互いに、どれだけ「体得」しているかは、別なのかもしれません。
教会においても、社会の様々な領域でも、良き人間関係や互いに敬い尊敬する「良きコミュニケーション」を培う(体得する)ことは、本当に大切ですね。
聖書の教え、剣道の教えも、共通しています。
●<聖書の教え>
「愛をもって真理を語り」、「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
●<剣道の精神・キリスト者の生き方>
「円満」「柔和に穏やかに」
・小野派一刀流 第17代宗家:笹森建美師 の言葉。
(日本基督教団 駒場エデン教会牧師 / 2017年8/15 召天)
ーーーーー
捨てきること
「不動智神妙録」沢庵 宗彭(たくあん そうほう)著
池田諭 訳 「心を捨てきること」の章より
・江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」についての書物。徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩に与えられ、『五輪書』、『兵法家伝書』等と並び、後の武道に多大な影響を与えた。
ーーーーーー
鎌倉の無学禅師(むがくぜんじ)、大唐の乱に捕らへられて、切らるゝ時に、電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)という偈(げ=仏徳を称え教理を解く詩)を作りたれば、太刀をば捨てて走りたると也。
ーー
鎌倉の無学禅師は、大唐の乱(1275年に、南宋が元に攻められた時のこと)で、元の兵に捕らえられ、まさに切られようという時「電光影裏斬春風」という偈を作ったところ、兵は刀を捨てて逃げたということです。
ーーー
・・・・・<中略>・・・・
かように心を忘れきって、万(よろず)のことをするが、上手の位なり。舞を舞へば、手に扇を取り、足を踏む。其(その)手足をよくせむ、舞を能く舞はむと思いて、忘れきらねば、上手とは申されず候。業(わざ)は皆面白かるまじ。悉皆(しっかい=ことごとく)心を捨てきらずして、する所作(しょさ)は皆悪敷(みなあしき)候。
ーーーーーー
我らの主、イエス・キリストは、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイの福音書 16章24、25節)
と語られました。
「自分を捨て」を思うとき、「自分=心」を捨て切っているのだろうか?、と心探られる思いです。
●「剣道とキリスト教」(別サイト)
『不動智妙新録』沢庵 著
ーーーーー
大きく踏み込む「面」の練習
〜痛めた膝と腿(もも)の番(つが)いで、思い起こしたヤコブ(イスラエル)の物語〜
一ヶ月ちょっと前(10/15)の剣道の練習で、左膝の後ろ側の筋を痛めました。
様子を見ながらの2週間目からの練習でしたが、ちょうど一ヶ月目(11/15)の練習で、ちょっと足を気にしながらの面の踏み込みで、今度は、左膝の内側の筋をちょっと痛めました。それと、左足の付け根の前側の筋もちょっと痛めた感じ。 腰骨の下側(前側)の左足の付け根の筋肉(筋)が、まだ時々痛みが走ります。
最近、「面打ち」で、相手に悟られないように、大きく踏み出す方法(= facebook の「居合の友だち」から頂いた示唆を心に)を会得したので、時々使っていたのですが・・・。
やはり、年齢とともに体の筋肉や筋が硬くなっているのでしょうね。 それにしても、この「面打ち」の方法だと、先生方も後ろに下がって受け流そうとしても、ほぼ必ず「面」を捉えていたので、<特技>になるかと思っていました。 まだ、慣れていないので、少し、無理があったのかも?
というわけで、湿布しながら、11月の練習はお休み中。
肉離れは、回復までちょっと(だいぶ?)時間がかかります。
来週の金曜日から、剣道の練習再開できると良いのですが… .
(^_^;)
ーーー
イスラエル民族の先祖ヤコブが、夜中に神様(主の使い)と組討して、腿(もも)のつがい(関節)を打たれて(外されて)もなお、組討(相撲)をしていたという、旧約聖書のみ言葉(物語)を思い起こします。 (創世記32章)
夜が開け始める中で、神様から「あなたの名は、イスラエル(神=エル* と 戦って=イスラ 勝利を得た)としなさい。」と命ぜられたのでした。
神からの祝福や事の解決(祈りの答え)を得るまで、「神と組討する」ような 信仰者の系譜に自らの身も置かせていただきたいものだと思わされます。
(* --- ヘブル語の「神」の意味)
ーーー
動画は、11/15 の練習。
先生との地稽古で、大きく踏み込む「面」を練習しました。
・川西市剣道協会 本部道場(総合体育館 2F・武道室)にて
ーーーーーーーーーー
<創世記 32章 24〜32節>
・・・・・
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。
ーーーーー
「赤子を抱く構え」と「茶巾絞りの打突」
● 昨日(3/22)の剣道の練習
最近、だいぶ以前に田野師範からお聞きした「赤子を抱く構え」と、今の師範(庄司師範)が時々言われる打突における「茶巾絞り」の奥義が、わかったように思います。
「赤子を抱く構え」でないと「茶巾絞り」の打突はできない!!
両腕に赤子を抱く構えせよクリスマスに聞く師範の教え
写真は、いつもご指導をいただく、七段の先生。(右)
私と同年代の先生方なので、気持ちは同じ心でと練習させていただいています。
いつも、鮮やかな「出小手」と「抜き胴」を決められます。
時々、「小手ー胴」の連続技か「面ー磨りあげ面」で、数本は応じておりますが・・・。
左側が私。
最近、姿勢には気をつけています。
● 「茶巾絞り」について
ーーーーー
『人がその友のために』 〜共通の奥義〜
『人がその友のために』
<剣道とキリスト教_01>
「剣道とキリスト教って、どんな関係があるの?」と身近な方々や同僚の牧師からも問われたことがあります。
この問いに対する答え、キーワードは、「友のために」と「捨て身」です。
私は、中学2年の時から五十数年間剣道を練習しています。その中での一大転機は大学一年の終わり、1973年3月11日に教会の礼拝に初めて出席し、そこで信仰を持ったことです。 当時、「剣道を通して、人生の柱を見出す」と友人たちにも語っていた私でした。
初めて出席した石橋キリスト教会の礼拝で、有田優(ありた まさる)牧師の語るメッセージ、「神はあなたがどのような罪人であるか、すべてご存知の上で、あなたに『友よ』と呼びかけてくださり、『私のもとに来なさい。』と招いておられます。」に深く心を探られ、イエス・キリストを私の罪からの救い主、人生の主として信じました。
この時から、十字架上ですべての人のために自らのいのちを捧げられた、キリストの「捨て身の愛」、すなわち
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(新約聖書・ヨハネの福音書 15章13節)
との、キリストのことばが、私の信仰の土台となったのです。
そして・・・、今一つの鍵の言葉もお話ししたいと思います。
大学入学と同時に入部した剣道部では、日々の激しい練習がありました。
私たちの卒業の翌年、昭和52年に九段を授与された佐々木季邦(ささき すえくに)範士から、合宿などの折にいくつかの剣道の奥義について教えを受けました。
その中に次の歌があります。
「山川の瀬々に流るる栃殼も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」
私は、ここに剣道の奥義「捨て身」の精神、「身を捨ててこそ生きる」が、キリストの十字架の死と復活を指し示しており、まさに合一、同じ生き方であると心に受け止めたのでした。
これが、私の「剣道とキリスト教」の原点なのです。
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<写真>
左:神学生の2年目、奉仕先の「港キリスト教会」の礼拝メッセージのためにおいでくださった、有田優先生ご夫妻と私。
右:大阪府立大学剣道部の「佐々木季邦先生ご夫妻を偲ぶ会」(2015年10月17日)で展示された、佐々木先生の肖像写真と「剣道日本」(1985年1月)の表紙。
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「日本人のとらざる所」
昨日(2016年 4/15)、川西市剣道協会(本部道場)での練習の合間に、今年89歳になられる師範が二人の方に語っておられました。
私も、すぐ横で正座していたので、拝聴させていただきました。
「理合(りあい)のわからぬままに七段で終えてしまう者もある。」
剣の道はなかなか厳しいものと、あらためて思わされました。
帰ってから、久しぶりに笹森順造先生の『剣道』の本を取り出し、幾つかの項目を読んでみました。
・写真:左 ----- 『剣道』笹森順造著・旺文社
右 ----- 『剣道みちしるべ』佐々木季邦著
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付録 三、剣道・しない競技用語解説
・「理・り」----- わざを出す心の働きにかなう道理。この理に従って機会に乗ずること。
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第二編 競技指針
二、技術編
第二章 稽古の進め方
(乙)心術
第四節 心気理機術の五格
三、気理合一
まず気を静めて相手に対する。危急に臨んで気が騒ぐと、みずから敗を招くことになる。たとえば水動いて魚驚くようなものである。平常から気を丹田に納め、驚、怖、惑、疑、憶、侮、驕の七病を去り、敢然として、理の則るべき端を捉え得るようにならなければならない。豪気も正理を逸すると百害あって一利ない。たとえば、流水原野に流れても、横溢氾濫したのでは田畑人畜に禍いを流すのみである。理に則り道によって奔れば発電、灌漑、飲料みな役に立つ。稽古における気合も強弱、虚実、掛引などに使うよりも最も大事なことは理によって勝つことである。
打突の技にしても、理合正しく筋道正しく法に則って使うと、止むに止まれぬ尊い勝が出る。希勝や騙打ちはわれらの恥じる所、兵は詭道なりという孫氏の言は日本人のとらざる所である。われらはつねに真鋭を尊び、気理合一を目差してはげみ、そこに初めて必勝の神機が出てくることを求めて進むのである。
(『剣道』p.94〜95)
『剣道』 笹森順造 著
旺文社スポーツシリーズ (15)
昭和30年 7月 5日 初版発行
昭和42年 2月10日 重版発行
発行所:旺文社
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<写真>
1. 笹森順造 著『剣道』(左)
佐々木季邦 著『剣道 みちしるべ』(右)
2. 剣道時代_1976-04_笹森順三先生をしのぶ_b
3. 剣道時代_1976-04_笹森順三先生をしのぶ_a