剣道とキリスト教

「面ー擦り上げ胴」の申し合わせ稽古

「面ー擦り上げ(返し)胴」の申し合わせ稽古_2022-0322
 
*剣道の技_左巴(右胴払)・右巴(左胴払)、及び、擦り上げ胴の練習です。

「申し合わせ稽古」で、「面ー擦り上げ(返し)胴」の練習をしました。
 
ーーー
 
笹森順造先生の『剣道』の「第六項 胴技の範例」(p.132)では、「受け払」、「撥き払」、「落し払」、「巻き払」、「抜け払」について記されています。
 
特に大切な点は、「右胴」を打った後の残心は「脇構え」で、「左胴(逆胴)」を打った後の残心は、「陽の構え」と、記されています。

足捌きも重要ですが、特に「左胴」を打った(払った)後に「陽の構え」を取ると、綺麗に打てるようです。 
 

 
『剣道』は、高校生時代(1968年頃)に購入した「旺文社スポーツシリーズ」の本ですが、小野派一刀流の宗家で、笹森建美牧師(2017年8月15日 召天・駒場エデン教会)のお父上、笹森順造先生のこの本は、今でも大切にして、時々読んでいます。 


笹森建美牧師(新潮社『武士道とキリスト教』)
・Amazon
 
https://amzn.to/3uvQ0CP 

・新潮社
 
https://www.shinchosha.co.jp/book/610505/
 
・『剣道』笹森順造著 の書籍(写真)について
 
https://peterpooh.blog.ss-blog.jp/2017-08-18

必勝の神機

「剣道とキリスト教」(第5回)

『必勝の神機』
〜「気理合一」を目指して〜

最近、小野派一刀流 宗家の笹森順造先生のいくつかの 言葉を思い起こします。
「必勝の神機」、「気理合一」、「日本人の取らざるところ」・・・。
 
「必勝の神機」とは、何でしょうか?
剣道の教えと、聖書の奥義「圧倒的な勝利」について、お話しします。


2021-7/12
・YouTube 動画:16

「気理合一」を目指して


「気理合一」を目指して

最近、小野派一刀流 宗家の笹森順造先生と息子の笹森建美先生(駒場エデン教会 牧師/2017年 8月15日 召天・84歳)のいくつかの 言葉を思い起こします。


A-剣道時代_1976-04_笹森順三先生をしのぶ_b
・クリックすると、拡大します。
A-剣道時代_1976-04_笹森順三先生をしのぶ_a
 
本多庸一(津軽藩・横浜バンドの一人)から影響を受けて弘前教会で笹森要蔵の長男卯一郎が洗礼を受けました。そして、要蔵の末子、笹森順造先生(駒場エデン教会牧師、笹森建美先生の父)は、「母の懐に抱かれながら、神様の話を聞いて、自然に神様を信じるようになった」と話されていたとのこと。
今、笹森順造先生の『日本人のとらざるところ』の言葉を最近、とみに思います。

「危急に臨んで気が騒ぐと、みずから敗を招くことになる。」

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大(パンデミック)の2020年。そして、アメリカの大統領選を始め、日本、ヨーロッパ、中国、アジアなどの国際政治や株式・金融市場、企業や組織、各職場の動向など。
また、コロナ第三波のなかで、先が見えない私たちの市民生活。
心騒ぐことの多い中ですが、「われらはつねに真鋭を尊び、気理合一を目差してはげみ、そこに初めて必勝の神機が出てくることを求めて進む」ものでありたいと願います。
 

「必勝の神機」とは、笹森順造先生がキリスト者であられることを思うと、明らかに、聖書のあの教え、あの言葉を踏まえておられるのだと思います。

聖書の「あの教え」、「あの言葉」とは・・・、


「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 (イエス・キリストのことば/ヨハネの福音書 16章33節)
ーーー

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
・・・・・
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
 (ローマ人への手紙 8章35〜37節:使徒パウロがローマの教会に宛てた書簡)



以下は、2016年の 4/16 に 「剣道とキリスト教」のブログや、facebook に投稿した一文です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「日本人のとらざる所」

 (2016 416日)

昨日(4/15)の川西市剣道協会(本部道場)での練習の合間に、今年89歳になられる師範が二人の方に語っておられました。
私も、すぐ横で正座していたので、拝聴させていただきました。
「理合(りあい)のわからぬままに七段で終えてしまう者もある。」

剣の道はなかなか厳しいものと、あらためて思わされました。 
帰ってから、久しぶりに笹森順造先生の『剣道』の本を取り出し、幾つかの項目を読んでみました。
Kendo_Kendo-Michishirube


 ーーーーー
付録 三、剣道・しない競技用語解説
・「理・り」----- わざを出す心の働きにかなう道理。この理に従って機会に乗ずること。 
 ーーーーー
第二編 競技指針
 二、技術編
第二章 稽古の進め方
(乙)心術
 第四節 心気理機術の五格
  三、気理合一
 まず気を静めて相手に対する。危急に臨んで気が騒ぐと、みずから敗を招くことになる。たとえば水動いて魚驚くようなものである。平常から気を丹田に納め、驚、怖、惑、疑、憶、侮、驕の七病を去り、敢然として、理の則るべき端を捉え得るようにならなければならない。
 豪気も正理を逸すると百害あって一利ない。たとえば、流水原野に流れても、横溢氾濫したのでは田畑人畜に禍いを流すのみである。理に則り道によって奔れば発電、灌漑、飲料みな役に立つ。
 稽古における気合も強弱、虚実、掛引などに使うよりも最も大事なことは理によって勝つことである。打突の技にしても、理合正しく筋道正しく法に則って使うと、止むに止まれぬ尊い勝が出る。
 希勝や騙打ちはわれらの恥じる所、兵は詭道なりという孫氏の言は日本人のとらざる所である。
われらはつねに真鋭を尊び、気理合一を目差してはげみ、そこに初めて必勝の神機が出てくることを求めて進むのである。

 

ーーーーーーー

写真:
1. 剣道時代_1976-04_笹森順造範士急逝
2. 剣道時代_1976-04_笹森順造先生をしのぶ
3. 笹森順造 著『剣道』(左)
 佐々木季邦 著『剣道 みちしるべ』(右)

キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―


キリスト教と武士道 ― 信仰と生死 ―

 駒場エデン教会牧師  笹森 建美

 私は教会の牧師であると同時に、日本古来から伝わる小野派一刀流という剣術や、林崎流という抜刀術、直元流という大長刀術の宗家を継いでいます。そのため、「教会の牧師と剣道や武道とは矛盾しませんか」とよく聞かれます。「キリスト教と武道とは矛盾しないのか」という質問は、依然として日本の中に、キリスト教と武道は正反対の立場にあるのではないかという考えが存在するからでしょう。

 内村鑑三がある人から武士道とキリスト教はなじまないのではという指摘を受けた時、彼は自分が武士であると誇りを持っていたので、憮然として「いや、そんなことはない。武士道とキリスト教は一致するのだ」と述べています。彼は特に強調して次のようなことを言っています。
「イエスとその弟子を武士の模範として見ることができる。例えば、キリスト教と武士道の共通点は、両者とも真実、あるいは正義、嘘をつかない、人をだまさないということをとても大事にしていることである。武士道は勇気であって義のために死を恐れない。一方パウロも、人から自分が恥を受けるようなことをしたくない、自分の誇りを失われるならば死んだほうがましだ、と言っているように、パウロこそ私たちの模範とすべき武士なのだ。」さらに、パウロの「私たちは生きるのも死ぬのも主のために生き、すべては主にあって益である。死ぬのも益である。生きるのも益である」という言葉を引用して、「生きるのも死ぬのも私の身によって何かが現されること。キリスト教の場合はイエスの栄光、神の栄光が現れること。武士道においては正義とか公正というものが現れること。そのためには命を懸けてもいいのだ。それが両者に共通する点なのだ」と述べています。
 剣の道である武士道も、キリスト教信仰も、人の死に方あるいは生き方を真剣に問いかけているのです。

『葉隠』という本の中に面白い逸話があります。昔の武将の新田義貞が勝ち目のない戦に望んで行き、敵に囲まれて死ななければならなくなったときに、自分で首をかき切り、地面に穴を掘って自分の首をそこに入れて、その上に横になって自分の首を守り通した、というのです。著者の山本常朝はこのように言っています。「真の剛の者というのは何も言わずにそっと抜け出して死に赴くものである。相手をしとめる必要はない。黙って切り殺される者が剛の者なのだ。このような者は相手をしとめることができるものである。」つまり、本当に強い人は何も言わずそっと出て行き首を差し出して死ねる。そして、自分の首を差し出すことができる人、その人が実は相手に勝っているのだ。これが武士道の精神です。決してただの狂気ではありません。

 キリスト教の信仰を思い起こしてみますと、キリスト教が世界に広まっていく過程で多くの迫害を受けました。最初に迫害を受けたステファノは、石を投げられて殺される時に、「私を殺そうとしている人たちは、何をしているのか分からないのです。彼らの魂をお赦しください」と天を仰いで祈っています。本当に馬鹿げた狂気にしか見えない行動です。その時にステファノを殺すことに賛成していた人がパウロでした。ステファノを殺すことに、すなわちクリスチャンを殺すことに自分の情熱を燃やしていたパウロが、その後回心しキリスト教を伝える側に変わってしまいました。ステファノの死は決して犬死にではなかったのです。彼の死こそが、パウロの魂の中にある何かに語りかけていたのです。初代のクリスチャンたちは、見方によっては、唯々諾々として殺されていきました。しかし逆に、それによって福音が全世界に及んでいったのです。

 実は、この精神はイエス御自身にありました。イエスが十字架にかかった時にユダヤの人々はイエスを罵りました。「お前がもし本当に神の子ならば、今その十字架から降りてこい」、「何故今すぐ味方の軍勢を呼びここで革命を起こさないのだ。そうしたら我々はお前を信じよう。」その時に十字架のイエスは、神に対して「この人たちは何をしているのか分からないのです。彼らの魂を救ってください」と祈り、そして「ことは成就した」と言って十字架で死んでいかれました。もしイエスが十字架から降りて味方の軍勢を呼び革命を起こしていたら、一時的にはユダヤの国はイエスを王とする独立国になっていたかも知れません。歴史の中の一事件として、ナザレから出てきたイエスという男が独立を勝ち取ったという記事が歴史の一行に書かれたかも知れません。しかし、それはそれでおそらくおしまいであったでしょう。イエスが十字架について死なれたからこそ、今、全世界にイエスの教えが広がっているのです。

 このようにキリスト教と武士道は非常に近いところにあるということを理解していただけるかと思います。ただ残念なことに、武士道そのものには「神からの救い」や「神の愛」という教えは見えてきません。内村鑑三はこのように述べています。「武士道がキリスト教に触れるならば、キリスト教の洗礼を受けるならば、世界で最も優れた教えになるであろう」と。その通りだと思います。武士道にはまだ限界があります。しかし、イエス・キリストの洗礼を受けるならば、武士道は世界に誇ることのできる一つの人間の生き方を示すものとなるでしょう。死が死で終わらない世界、死が命を満たす世界、それが私たちの本当に求めているところではないでしょうか。

 私たちは、毎日何だか分からずに生かされているような生き方をしていますが、「本当にこれでいいのだろうか」と考えるはずです。その時に、自分の信じることに命を懸けることができるかどうか是非問いかけてみてください。その時きっと、聖書が教えていることが甘いロマンティックなものではなく、あなたは生きることによって死んでいるのか、死ぬことによって本当に生きようとしているのか、というチャレンジをしていることに気がついていただけるのではないかと思います。

(大学チャペル・ウィークでの説教より)

 『青山学報』 200110

「宗教感話」は、『青山学報』に連載されている、学内外でキリスト者としてよいお働きをされている方々に執筆していただいている、エッセイ的な読み物です。 執筆者の肩書きは当時のものです。
——————————————

*本文の掲載は、著者より承認を受けています。 2012927日)
*当初(リンク)は、青山学院宗教センターより承認を受けました。
 (
200669日)
井草晋一:ピヨ バイブル ミニストリーズ

*下をクリックし、PDFファイルでお読みください。  
 キリスト教と武士道
  
  
<Amazon 「武士道とキリスト教」>
 ・電子書籍:クリック
↘️

UNADJUSTEDNONRAW_thumb_399df




剣道は、究極のコミュニケーション!


剣道は、究極のコミュニケーション!
 
左膝を痛めていたので、剣道の練習はしばらく休んでいました。
今日(12/13)は一ヶ月ぶりに、総合体育館の二階、武道室で行われている、本部道場の練習に参加。
軽めの練習(6割くらい)でセーブしました。 

庄司師範の教え_理合と竹刀の持ち方_2019-1213

92歳の師範と、60歳台のN先生と、本部道場代表のT先生との練習。
早めに、15分くらい前に練習を終えて、面を外して素振りをしていると、近づいて来られた師範が、にこやかに「剣道は精神、理合、許すところ・許さざるところ、の鍛練です。闇雲に打ち込んでは上達しません。」と声をかけてくださいました。
短い時間ですが、いつも、大切な教え。
竹刀の握り方、左手と右手の使い方、打ち方も。 


 
私にとっては、なかなか習得が難しい教え「理合(りあい)」、究極のコミュニケーションの領域です。
 
知ったこと、分かったことと、体得しているか否かは、全く違いますね。
 
ーーーーー
 
神学校で、神学生たちを前に「キリスト教人間学」(旧講座名・「教育心理学・発達心理学」)を家内と二人で教えていた時のメインテキスト『バウンダリーズ:境界線』(ヘンリー・クラウド/ジョン・タウンゼント 著/中村佐和・中村昇 共訳/地引網出版 / 2004-10/1 発行)のことを思い出していました。
 
この本が出版されて間もない時に、大阪のジュンク堂書店で神学校の授業用にふさわしい本がないか、家内と探しに行っていて、見つけました。(20054月)

UNADJUSTEDNONRAW_thumb_399de UNADJUSTEDNONRAW_thumb_399df

それで、神学校の授業講座名も「キリスト教人間学」に変更。
この講座名で再スタートした頃、翻訳者の中村佐知さん(アメリカ在住)にメールで連絡をして、いろいろアドバイスもいただきました。
 
当時、教会内の対人関係(牧師・役員・教会員)で悩みを抱えたり、心身共に疲れを覚えて通院や休業、退職を余儀なくされた牧師たちの事例が、関西地域の各教団・教派の諸教会でも見受けられるようになっていました。

それから、15年。
対人関係における「バウンダリーズ」の大切さ、良きコミュニケーションを培うことの重要性については、日本の社会でも当然の基本的知識として共有されて来てはいます。
ただ、お互いに、どれだけ「体得」しているかは、別なのかもしれません。
 
教会においても、社会の様々な領域でも、良き人間関係や互いに敬い尊敬する「良きコミュニケーション」を培う(体得する)ことは、本当に大切ですね。
 
聖書の教え、剣道の教えも、共通しています。
 
<聖書の教え>
「愛をもって真理を語り」、「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
 
<剣道の精神・キリスト者の生き方>
 「円満」「柔和に穏やかに」
・小野派一刀流 17代宗家:笹森建美師 の言葉。
 (日本基督教団 駒場エデン教会牧師 / 20178/15 召天)
ーーーーー